カップめん登場と国際化

新しいジャンル「カップめん」の登場

いよいよ、インスタントラーメン市場に刺激を与え、のちに袋めんと2大ジャンルを形成することになる「カップめん」の登場です。

インスタントラーメンの伸び率停滞

1970(昭和45)年は、大阪で国際万国博覧会が開かれ、国民総生産(GNP)が西ドイツを抜いて世界第2位(1968年)となるなど、主食への出費が減り、嗜好品費と外食費の割合が増え始めます。
顕著に伸びたのは洋風スナック菓子。そしてコーヒー、ジュース、コーラの需要が増えました。
一方、インスタントラーメンは生産量36億食、前年対比102.9%と伸び率が停滞しました。市場飽和となっていたのです。しかも、1世帯当たりの購入数量が初めてダウンしてしまいます。前年10月に起きたチクロショックで加工食品全般が敬遠されたことや、希望小売価格の値上げが原因として考えられました。

カップめん登場

カップヌードル

こうした状況を打ち破るべく登場したのが、1971(昭和46)年9月に発売された日清食品の「カップヌードル」だったのです。

内容量84g、発泡スチロール容器に入った味付けめん、小売り100円。
1食ごとにフォークが添付され、シュリンク包装された全く新しい発想の加工食品でした。

発泡スチロールに入っているというだけでなく、容器は包装材であり、調理器であり、食器となるなど、3つの機能を果たしています。

この商品はインスタントラーメン市場に刺激を与え、のちに袋めんと2大ジャンルを形成することになるのです。

カップめんの成長と資本自由化

銀座・四丁目交差点 昭和45年

1973(昭和48)年までに、カップめんに参入したメーカーは日清食品のほか14社、ブランド数27に及びます。
この時期は1969(昭和44)年の第二次資本自由化(飲食業は100%の自由化)にともなって、翌1970(昭和45)年から日本ケンタッキーフライドチキン、日本マクドナルドなどが次々に誕生します。東京では銀座、新宿、池袋、浅草で歩行者天国がスタート。

また、「すかいら~く」1号店が開店するなど、高度消費時代を迎えて日本人の食に対する価値観とライフスタイルが、大きく変わっていきました。

カップめんは、その変化によく対応した商品だったということができます。「カップヌードル」の登場は、マクドナルド1号店が銀座にオープンしたのと同じ年のできごとです。そしてカップめんの成功は、「カップしるこ」、「カップコーヒー」などの登場に見られるように、インスタントラーメン以外の食品にも影響を与えました。

石油ショックとインスタントラーメン

1972(昭和47)年の秋から、日本の経済は深刻なインフレに陥りました。ドルの信頼が低下し、世界経済そのものが変動を始めていたのです。世界規模で進行していたインフレの上に、日本は貿易収支の黒字増大や列島改造推進、金融の大幅緩和が重なり過剰流動性が表面化し、さらに不動産投機、買い占め、価格のつり上げが蔓延。大手商社が世間の批判を浴びていました。

1973(昭和48)年7月、政府は生活関連物資の買い占めと売り惜しみに対して、緊急措置法(投機防止法)を発しました。インフレの影響はインスタントラーメンにも及びます。
まず原材料価格が跳ね上がり、大きなコストアップとなりました。そして同じ年の10月、第4次中東戦争が勃発します。エクソン、シェルなどのメジャーによる原油価格の30%値上げと10%の供給削減通告が、第1次石油ショックを生じさせたのでした。すぐに諸物価が高騰します。インスタントラーメンにとっては、小麦、油脂類、包装資材類の値上がりが響きました。

石油ショックは消費者の生活防衛心理に火をつけ、買いだめに走らせました。
トイレットペーパー、洗剤、砂糖とともにインスタントラーメンは品不足現象に陥ったのです。
このころ、インスタントラーメンの新しい食べ方を提案したのが、1974(昭和49)年10月に明星食品が発売した「ミニ・ラーメンちびろく・しょうゆ味」がそれです。めんの重量を半分の50gとし、6個積み重ねて1袋とした製品でしたが、食べる加減ができるということで、時代にあったアイデア商品として人気を呼びました。

日本列島を震撼させた石油ショックは約半年で終息します。
しかし、世界は深刻な景気の落ち込みに見舞われ、日本の高度成長時代はにわかに低成長時代へと移行していきます。その経験から、日本人は考える消費生活者へと変わり、より厳しい商品選択の目をもつようになるのです。

大手食品メーカーの市場参入

ハウスシャンメンしょうゆ味

1973(昭和48)年8月、インフレのさなか、ハウス食品が「ハウスシャンメンしょうゆ味」(100g/40円)で市場参入を果たしました。同社にとって、インスタントラーメン市場への参入は創業60周年記念事業のひとつでもありました。「ハウスシャンメンしょうゆ味」は予定を上回る売上げを実現し、翌年には塩味、みそ味を加え、売上げ100億円の大台に乗せる勢いをみせます。

ワンタンヌードル

ハウス食品に続き、カネボウフーズが「ワンタンヌードル」(カップめん)で、丸大食品が袋めんで市場参入します。

明星ラーメンめん吉

こうした大手食品メーカーは市場の成熟を前に、業種業態の壁を超えて多角化を図ったものでしたが、当然ながらインスタントラーメン市場に緊張をもたらすことになります。
この間、ハウス食品の「ハウスシャンメンたまごめん」、「つけ麺」がブームを起こし、明星食品の「明星ラーメンめん吉」が再びノンフライめんブームに火をつけました。

UFO現る! カップめん新製品ラッシュ

ペヤングソースやきそば

カップめんの総生産量は、「カップヌードル」が発売された翌年1972(昭和47)年には1億食、1973(昭和48)年には4億食、1974(昭和49)年には7億食、1975(昭和50)年には11億食と、驚異的な伸びを示します。そのなかで特に目立ったのは、「焼きそば」と「和風めん」です。
1974(昭和49)年、恵比寿産業が「エビスカップ焼そば」を出し、引き続きエースコックが「カップ焼きそばバンバン」を出しました。

日清焼そばU.F.O.

1975(昭和50)年、まるか食品が初めて四角い容器に入れた「ペヤングソースやきそば」を発売、そして1976(昭和51)年には日清食品の「日清焼そばU.F.O.」が登場します。
いわゆるカップ焼きそばは、このいずれもがヒットするという好調ぶりでした。

和風めんでは、1975(昭和50)年に日清食品の「カップヌードル天そば」に続いて、東洋水産の「マルちゃん・きつねうどん」、「マルちゃん・天ぷらそば」(それぞれ「赤いきつね」、「緑のたぬき」の前身)、エースコックの「きつねうどん」、サンヨー食品の「カップスターきつねうどん」、カネボウフーズ「もち入りきつねうどん」、翌年に日清食品の「日清のどん兵衛 きつね」などが出揃います。

  • カップうどん きつね

  • もち入りきつねうどん

  • 日清のどん兵衛 きつね

ノンフライタンメン

それに対して中華めんでは、初めてのカップ入りノンフライめんが誕生しました。
1976(昭和51)年にカネボウフーズから出た「ノンフライタンメン」がそれです。湯戻りをよくした製品で、1980(昭和55)年の「広東拉麺」シリーズへと発展したあと、カップ入りノンフライめんの市場で大きくシェアを伸ばしました。

めん吉ラーメンどんぶりくん

1977(昭和52)年になると、明星食品がカップめんでは初めて丼型容器に入った「めん吉ラーメンどんぶりくん」を出し、ヒットしています。

海をわたるインスタントラーメン

インスタントラーメン市場が飽和状態となり、飲食業界の資本自由化が進んだ1970(昭和45)年、インスタントラーメンメーカー各社の本格的な海外進出が始まります。
日本企業による海外進出は、国内商社や海外企業をパートナーとして、技術提携、技術供与などさまざまな形で相次ぎ、東南アジア、南米、ヨーロッパ、アフリカと、全世界へと広がりを見せることになります。

グラフで見るインスタントラーメン