インスタントラーメンの誕生

インスタントラーメンの最初の1ページ

今では、あって当たり前のインスタントラーメン。その最初の誕生は、あのおなじみの商品の発売がはじまりでした。ここでは、インスタントラーメンの誕生のはじまりをご紹介いたします。

はじまりはチキンラーメン

チキンラーメン

1958(昭和33)年、ジャイアンツに長嶋茂雄がデビューする年、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』とロカビリーをBGMに、インスタントラーメンが最初の1ページを開くことになります。夏の甲子園大会は準々決勝、徳島商対魚津高が歴史的なあの延長18回時間切れ再試合を戦った8月25日。日清食品が、「チキンラーメン」を発売します。
これが、初めてインスタントラーメンの基本工程(製めん、蒸熱処理、味付け、油揚げ乾燥)を工業的に確立し、量産に成功したものとして、大評判になりました。「お湯をかけて2分間」とうたう味付即席めんは、「魔法のラーメン」と呼ばれました。すぐ簡単に食べられる画期的なこの商品が、爆発的な売れ行きを見せたのです。

品不足で悩むほどの売れ行きに

日清食品創業者 安藤百福

「チキンラーメン」登場の背景には、日本人のめん類好きがあります。第二次世界大戦前から、そば屋、うどん屋とならんで支那そば屋が繁盛していました。
戦後は中華そばの屋台に行列ができ、敗戦による劣悪な食生活のなかにあって、中華そばは安くてカロリーの高い栄養食として好まれていたのです。
「チキンラーメン」の生みの親は、日清食品の創業者である安藤百福です。安藤はおいしいこと、保存できること、調理が簡単なこと、価格が適正なこと、安全なこと、この5つを目標に、開発を進め、味付即席中華めん「チキンラーメン」は誕生しました。しかしながら、1食35円という販売価格は、当時中華そばを店で食べるのと変わらない値段でした。うどん1玉6円にくらべ、問屋も顔をしかめる価格であったのも事実です。
ところが、この革新的な商品は発売後すぐに、品不足で悩むほどの売れ行きを見せることになります。その後の生産者の努力によってインスタントラーメンは安定供給され、物価の優等生と言われるほど、誰もが認める安価な食品となっていくのです。

流行語になった「インスタント」

昭和30年ごろのお茶の間

一般的にはあまり親しまれていなかった「ラーメン」という呼称が、「中華そば」に代わって広く使われるようになったのも、「チキンラーメン」の登場がきっかけです。
また、少し遅れて1960(昭和35 )年、森永製菓から「インスタントコーヒー」が発売されて、人気を呼び、マスコミは「即席(インスタント)ラーメン」のブームと合わせて「インスタント時代」と名付けました。
各地の百貨店は「インスタント食品大会」を催し、ありとあらゆる“インスタントもの”が登場します。そしてついに、1960年から61(昭和35~36)年にかけて、「インスタント」は最大の流行語となりました。
しかし、インスタントという言葉の意味も、インスタント食品の評価基準も、まだまだあいまいなものでした。
ときに時代は、岸内閣から池田内閣へと移行し、「所得倍増」が叫ばれ、政治の季節から経済の季節へと動き始めていました。